法輪寺について

仏像

本 尊

薬師如来坐像

  • 重要文化財

  • 飛鳥時代

  • 一木造・彩色・像高110.6㎝

当寺の本尊で、講堂(兼収蔵庫)にお移しする前は、金堂にご安置していました。現存する飛鳥時代の木彫如来像としては唯一・最大のものといわれています。樟(くす)材の一木造で、必要に応じて木寄せが行われており、内刳(うちぐり)は見られません。頭をまっすぐに起こし、施無畏(せむい)、与願(よがん)の印を結び、二重の宣字形台座の上に懸裳を垂下させて結跏趺坐(けっかふざ)しておられます。
寺伝で、山背王御一族の現世利益を祈願して鞍部鳥(くらつくりのとり)に造らしめた薬師如来と伝え、薬壷を持たない古い形式をもっています。面長なお顔、直線的平面的なお体つきなど、一見して止利式の如来像の形を受け継いでいますが、2枚の大衣を重ねる着衣形式やうねりのある二重瞼、一直線に引き結んだ唇、衣文が左右対象性を崩していることなどから、中国の斉周様式の影響が考えられるようです。なお、色鮮やかな光背は明治後補のものです。

薬師如来は正式には薬師瑠璃光如来といい、その浄土は東方瑠璃光世界です。瑠璃光をもって病苦を癒し、寿命を延ばし、多くの災害を除くなど十二の大願を請願されていますが、特に医薬をもたない人々の救済という点が重視され、平安時代以降、薬壷をもつ像が多く造られています。

虚空蔵菩薩立像

  • 重要文化財

  • 飛鳥時代

  • 一木造・彩色・像高175.4㎝

かつては、本尊の薬師如来とともに金堂にご安置していました。寺伝で虚空蔵菩薩とお呼びしていますが、左手に水瓶をもち、右手は屈臂仰掌しているお姿から、観音菩薩と称すべきでしょう。
本尊の薬師如来と同じく樟(くす)の一木造で、三段葺きの大きな反花の蓮華座の上に、両足をそろえて直立しておられます。内刳(うちぐり)はありませんが、木心部分に空洞状の朽損(きゅうそん)があり、はじめからそのような材を使用したとも考えられています。体つきは平面的で簡素な肉づけで、側面からみるとやや腹部が前に出ています。一見してそのお姿が法隆寺の百済観音像に似ていますが、顔も脚も大きく、ずんぐりした印象があります。また、本尊の薬師如来と共通するうねりのある二重瞼、一直線に引き結んだ唇、天衣の左右対称性が崩れていることなどから、中国の斉周様式の影響が考えられるようです。

虚空蔵とは、福と智の二蔵の無量なことが大空にも等しく広大無辺であるという意味で、わが国では8世紀頃から信仰されています。この菩薩を念じて求聞持法(ぐもんじほう)という修法を行なうと記憶力が増すと考えられ、また近世に始まる「十三参り」に象徴されるように智恵の仏様として、また丑年、寅年の護り本尊として篤く信仰されています。

十一面観音菩薩立像

  • 重要文化財

  • 平安時代

  • 木造・彩色・像高360.0㎝

講堂の本尊(当寺の本尊は薬師如来)で、4m近い大きなお姿を収蔵庫の中央にご安置しています。頭部から台座(請花)までと、両腕の大部分が杉の一材から彫り出されています。大きな眼、太い眉、厚い唇の力強いお顔には、平安前期の特色がうかがえますが、全体に穏やかな作風を示しているところから、10世紀頃のものと考えられます。化仏(けぶつ)は、宝髻(ほうけい)の上に仏面1、地髪の正面に慈悲面3、左側に瞋怒面3、右側に牙上出面3、背後に暴悪大笑面1とあり、右手を長く垂下して左手を屈臂する、十一面観音の一般的なお姿です。光背(板光背)は中世の後補です。かつては初午のお参りが盛んであったと伝えられています。
なおこの十一面観音について、秋艸道人(しゅうそうどうじん/会津八一)の歌が『鹿鳴集』にあり、当寺境内にその歌碑があります。

観音菩薩は、観世音菩薩あるいは観自在菩薩の略です。観世音とは衆生が救いを求める音声を聞くとただちに救済するという意味、観自在とは一切諸法の観察と同様に衆生の救済も自在であるという意味です。救いを求める者に応じて、千変万化の相に変化して救済するということから、ヒンドゥー教の多面像の影響を受け、種々の変化観音(へんげかんのん)が考えられました。十一面観音はその中でも最も古く代表的なお姿といわれています。

弥勒菩薩立像

  • 重要文化財

  • 平安時代

  • 一木造・彩色・像高157.3㎝

かつては金堂にご安置していましたが、現在は講堂にお移ししています。寺伝では聖観音菩薩となっていますが、持物の蓮華の花の上に塔を戴いておられるところから弥勒菩薩と称されるようになったのでしょう。
量感のある体つきや、股間の渦文や裳裾近くの翻波式衣文(ほんぱしきえもん)等の表現に平安前期彫刻の特色がみられるものの、全体に彫りが浅くやわらかくなっていることなどから、10世紀後半頃の作と考えられるようです。
檜の一木造で、彩色はほとんど剥落していますが、裳の一部に群青と白の文様がわずかに残っています。なお、持物・光背などは後補です。

弥勒菩薩は梵語でMaitreyaといい、「慈から生じたもの」という意味です。弥勒菩薩は釈迦の跡継としての存在で、現在は菩薩のまま、その浄土である兜率天(とそつてん)で天人に対して説法されています。釈迦仏の予言によって、仏滅より56億7千万年後にこの世に下生(げしょう)し、龍華樹(りゅうげじゅ)の下で成道された後、三会(さんえ)の説法により釈尊の化益(けやく)にもれた一切衆生を済度する未来仏として、多くの信仰を集めています。

地蔵菩薩立像

  • 重要文化財

  • 平安時代

  • 一木造・彩色・像高149.8㎝

もとは金堂におられましたが、現在は講堂にご安置しています。頭部は僧形に造られ、髪際の線を波打たせているのが特徴的です。両腕と腹部のふくらみを強調したくびれや、腹部や股間に集中する深く大きい衣文線(えもんせん)等は、頭部の充実感とともに平安初期彫刻を思わせますが、体幅が狭く重量感に乏しいことから、おそらく10世紀頃の作と思われます。頭部から像底の臍(ほぞ)まで、内刳(うちぐり)のない檜の一木造です。もとは彩色像で、顔には胡粉(ごふん)、法衣には朱のあとが残っています。

地蔵菩薩は、釈尊の頼みを受けて、釈尊入滅後、弥勒菩薩が成道するまでの無仏時代に、六道の衆生を教化し救済する請願を立てられた菩薩です。この世で、そして地獄でも救済してくださる菩薩として、また子供を護る仏さまとして、平安中期以降盛んに信仰され、今に至っています。

吉祥天立像

  • 重要文化財

  • 平安時代

  • 一木造・彩色・像高171.3㎝

かつては金堂にご安置していましたが、現在は講堂にお移ししています。
杉の一木造で、背刳(せぐり)をほどこし、背板を当てています。眼・鼻・口とも浅い彫りで、柔らかく肉づけされた顔にやさしさを加えていますが、頸が短いため、お顔はやや四角ばった印象にみえます。両肩は幅広くいかり肩で、左手に宝珠をのせ、右腕は垂下して五指をのばしておられます。着衣の下から沓(くつ)が見え、二段の丸框(かまち)の上の荷葉座(蓮の葉の台座)上に立っておられます。浅い彫りや穏やかな像容からして、10世紀後半頃のものではないかといわれています。なお、光背や両手首・持物・台座などは後補です。

吉祥天はまた功徳天(くどくてん)ともいい、もとインド神話の吉祥(めでたいこと)の神が仏教に入ったもので、毘沙門天の妃とされています。天下泰平、五穀豊穣、財宝充足など、福徳円満の女神として古くから信仰されています。

妙見菩薩立像 御前立

  • 江戸時代

  • 木造・彩色・像高41㎝

講堂にご安置しているこの像は、当寺妙見堂の秘仏・妙見菩薩像の御前立です。熱心な妙見信者の念持仏であった可能性もあります。一面四臂で、日輪と月輪、巻子と筆をもち、青竜に乗られ、厳めしい表情のお姿です。
秘仏の妙見菩薩立像は11世紀頃の作とされ、現存する最古の木彫妙見像ともいわれています。会式(4月15日)のときのみ一般公開となります。

米俵乗毘沙門天立像

  • 平安時代

  • 木造・彩色・像高157.0㎝

もともとは桜の一木造の像であったようですが、後世の補修が著しく、当初部分は頭部から腹部までで、他の部分は後の時代に檜や杉の材を適宜、矧(は)ぎ寄せて補ったものです。踏んでおられる米俵は江戸時代の後補で、他に例がなく、七福神信仰の影響ではないかとも考えられています。当初何を踏んでおられたかは伝わっていませんが、室町時代末の『法輪寺縁起』講堂の条に、「米俵乗毘沙門」と記されており、当時すでに米俵であったことがうかがえます。

毘沙門天は、護法神である四天王のうち、北方を守護する多聞天を独尊としてあらわしたものです。その妃とされる吉祥天と対であらわされる例が多く見られます。室町末期に成立した七福神の信仰に取り入れられ、護法の神が転じて、施福の神として解釈されています。

楊柳観音菩薩立像

  • 平安時代

長く妙見堂にご安置され非公開でしたが、平成15年の妙見堂改築を機に講堂(収蔵庫)にお移ししました。
平安時代のお像で、造像当初は樟の一木造の聖観音菩薩像だったのではないかと考えられています。現在のお姿は江戸元文2年に行われた修理の際に新しく形作られたものです。激しく損傷した当初の根幹部材には頭部と胴の前面部分が残るのみで、複数の部材を不規則に矧ぎ寄せて楊柳観音像として復元してあります。
平成27年に行われたお像修復の際、お像の胎内より勧進帳やお札等、多数の墨書が見つかりました。そのなかに修理後のお姿と思われる素朴な絵があり、右手に柳の枝、左手に宝瓶を載せたお姿が描かれており、修理の成ったお姿を彷彿とさせますが、柳の枝も宝瓶も残念ながら今日に伝わっていません。

聖徳太子二歳像

  • 江戸時代

  • 木造・彩色・像高57㎝

聖徳太子二歳像は、生まれてから一言も発せられなかった太子が、二歳の2月15日に合掌されて「南無仏(仏法に帰依するの意)」と唱えられ、同時に御手の間から仏舎利(お釈迦様のお骨)がこぼれ落ち、お体からは妙なる香りが立ち上った、という逸話に基づいたお像です。上半身裸で、緋色の袴をつけて合掌しておられます。
また写真にはありませんが、二歳像の隣に、江戸時代の聖徳太子孝養像をご安置しています。これは太子十六歳の時、御父・用明(ようめい)天皇のご病気に際してその平癒をお祈りになられるお姿で、身には袈裟をつけられ、手には柄香炉(えごうろ)を捧げもっておられます。

平安時代に聖徳太子伝が成立し、中世以降、聖徳太子信仰が盛んになるにつれて、そのエピソードに基づいた太子像をつくることが全国的に盛んになりました。南無仏像(二歳像)、孝養像(十六歳像)のほか、以前の一万円札の図柄にもなった摂政のお姿などが有名です。