境内のご案内
法輪寺の伽藍は、昭和25年(1950)に行なわれた境内地の発掘調査によって、現在の金堂、講堂(収蔵庫)は旧位置を
踏襲していることがわかりました。
現在では廻廊が失われていますが、中門・廻廊が塔と金堂をめぐって北で閉じ、廻廊の外に講堂が立つ法隆寺式伽藍配置であること、
規模は法隆寺西院伽藍の3分の2であることが明らかになっています。
※境内図は指で拡大できます。
吹き出しの施設名を押すと詳しい説明をご覧いただけます。
三重塔
昭和時代
太平洋戦争末期の昭和19年(1944)7月21日、当寺の三重塔は落雷で焼失しました。焼失前の塔は最大最古の三重塔として明治時代より国宝指定を受けていましたが、全焼してしまったために、その指定は解除されました。住職二代にわたって全国を勧進行脚するなかで、作家の幸田文先生はじめ全国のたくさんの方々より大きなご支援をいただくことができ、昭和50年(1975)、西岡常一棟梁のもと、旧来の場所に創建当初の同じお姿でお返しすることができました。
塔内には、塔の焼失時にお救いできた釈迦如来坐像と四天王像(平安後期)をご安置しています。「天人の楽」にたとえられる風鐸(ふうたく/大型のものは塔の軒先に、小型のものは九輪についている、風で鳴る仕組みの鐘)の音を聞くことができるのも、塗られているベンガラ色が鮮やかであるのも、若々しい塔ならではの魅力といえましょう。
内部の特徴として特筆すべきは、心礎が地下式であることです。再建三重塔は、昭和47年(1972)発掘調査で確認された旧三重塔の心礎をそのまま使っています。基壇面より約2m50㎝地下に掘られてある心礎の中央には径15㎝の舎利孔が半球状に穿たれていて、塔焼失時に拾得された仏舎利が、内側より順に瑠璃・金・銀・銅の壷に入れ子状に納められ、安置されています。
外観では、次の3点が大きな特徴です。
まず、円い柱の下方に胴張りがきわだっていることが目につきます。また軒を仰ぐと、小天井が張られていないので、一重垂木の角材が軒より内部へ引き込まれているのが明らかです。そして円柱の上の皿斗のついた大斗からは勇壮な雲形肘木がせり出して軒を支えています。
旧三重塔の実際の建立年代は7世紀末のようですが、以上のような飛鳥様式の特徴を持つことが「飛鳥の塔」と呼ばれる所以でしょう。
金堂
江戸時代
現在の金堂は、江戸正保2年(1645)の台風で堂宇が倒壊してしまった後、三重塔が修復された宝暦10年(1760)の翌年に再建されたものです。
昭和25年(1950)の発掘調査により、旧金堂の位置を踏襲しながら、旧金堂よりひとまわり小さくなっていることがわかりました。寺運が衰えた中、再建は大変な苦労であったことを想像させます。
本尊の薬師如来様はじめ、主だった仏像を御安置していましたが、現在は老朽が進み、安全をはかって収蔵庫にお移りいただいています。
講堂(収蔵庫)
昭和時代
講堂は僧が勉強するためのお堂で、やはり塔、金堂と共に伽藍の中心となる建物です。
金堂と同時期に再建された江戸時代の小さな講堂を、昭和35年に耐火耐震の鉄筋コンクリートの収蔵庫として建てなおしました。規模は縮小されていますが、旧講堂の位置を踏襲して建てられています。
本尊の薬師如来をはじめ、11体の仏像をご安置し、出土瓦、伽藍図や塔の模型など公開しています。
妙見堂
平成時代
秘仏の妙見菩薩立像をおまつりし、一年の除災招福と諸願成就を祈願する節分の日の星祭りや、毎月の護摩供などを行う、行(ぎょう)のためのお堂です。
旧妙見堂は寺北の山中から境内に移築されたもので、江戸時代中期の様式を残す三間堂でした。
近年は老朽化著しく改築が急がれていましたが、平成11年(1999)の改築発願以来、沢山の方々よりご結縁を頂戴し、平成15(2003)年11月1日に無事、新妙見堂の落慶法要を厳修することができました。
地蔵堂
江戸時代
江戸時代の建物で、鎌倉時代末の石造りのお地蔵様をおまつりしています。
8月24日の地蔵盆には、三井集落の方々がお参りになります。
西門
奈良県指定文化財
上土門(あげつちもん)の数少ない遺構のひとつ。本来は板を並べた上に土を置き、妻に土留めの絵振板(えぶりいた)を置いたものです。
両妻に絵振板台と絵振板を残しながら、本瓦をのせ棟門の状態になっていたものを、昭和50年代に板葺の形で修復しました。
上土門は絵巻物などに多く描かれ、かつては武家の邸宅や寺院などに盛んに造られましたが、現在では、この門のほかには、法隆寺西園院上土門が残るだけになっています。
秋艸道人
(会津八一)歌碑
書家、歌人として高名な秋艸道人(しゅうそうどうじん/会津八一)は、数多く奈良の寺を詠まれ、歌集『鹿鳴集』に、当寺十一面観音菩薩を詠んだ歌があります。この歌碑は昭和35年(1960)に建立されました。
「くわんのん の しろき
ひたひ に
やうらくの かげ うごかして
かぜ わたる みゆ」
■会津八一(秋艸道人)
明治14年~昭和31年(1881~1956)新潟県出身。明治39年(1906)早稲田大学卒業後、教職のかたわら俳句を文芸活動の主軸とする。
俳論や一茶の研究などに業績を残すが、大正10年(1921)頃から短歌に転じる。歌壇とは終生没交渉を貫き、蒼古清澄な歌の調べは斎藤茂吉も高く評価するものとなった。
東洋美術史のほか英文学、俳諧史、民族学などを専門とし、学位請求論文『法隆寺法起寺法輪寺建立年代の研究』は、当時の学界に新風を吹き込むものとなった。
また、少年時代には習字を苦手としたが、その後自らの工夫によって独特の書の世界を創りあげた。各地に歌碑が作られているが、当寺にも十一面観音菩薩を詠んだ句(くわんのんの~)の碑がある。