法輪寺について

寺宝

出土古瓦

瓦もその製作された時代を反映します。出土する古瓦は、記録の少ない当寺の歴史を語る、重要な史料のひとつです。

鴟尾残闕

  • 重要文化財

  • 飛鳥時代

  • 高さ70㎝・全長54㎝

当寺の鴟尾(しび)は創建当初の講堂のものと伝わり、胴の下部と鰭(ひれ)の外縁部が欠けています。胴部に段型(大棟の瓦積みの名残)が放射状にのび、鰭にはやや幅のせまい段型をあらわし、両者の境界に突起帯(縦帯)がめぐっています。下端には降り棟の丸瓦を填め込む半円形の透し穴の痕跡が残り、無文の腹部上方には焼成時の火まわりのためとされる径2.6㎝の円孔があいています。和田廃寺や片岡王寺の鴟尾とともに百済様式の流れをくむもので、7世紀のものといわれています。

鴟尾は古代寺院建築の大棟両端に用いられた魚尾型の棟飾りです。起源は中国漢代に遡るといわれ、日本では飛鳥時代から作られるようになりました。「鴟」は鳥のトビのことですが、一説に「蚩(し/想像上の海獣)」ともいわれ、よく浪(なみ)を吹き雨を降らすということから、鴟尾は火難よけとされました。また、城郭建築等に見られる鯱(しゃちほこ)は、後世に鴟尾が発展したものと考えられています。

素弁蓮華文鐙瓦・
重弧文宇瓦

飛鳥時代後期

三重塔基壇の版築土から出土したものです。塔に使用されている瓦より古い形式のもので、塔に先行する建物の存在の可能性が考えられ、当寺草創時の瓦と考えられています。素弁蓮華文(そべんれんげもん)の鐙瓦(あぶみがわら。軒丸瓦ともいう)は、花弁に何等の飾りのないもので、飛鳥時代に使用されていたものです。重弧文(じゅうこもん)の宇瓦(のきがわら。軒平瓦ともいう)も飛鳥時代に多く使われていたもので、素弁蓮華文鐙瓦と組み合わされていたものと考えられています。

複弁蓮華文鐙瓦・
忍冬唐草文宇瓦

白鳳時代

弁中に子葉を二個配したものを複弁蓮華文(ふくべんれんげもん)といい、白鳳時代以降の鐙瓦(あぶみがわら)文様の主流になります。再建三重塔にもこの形式の瓦が復元されて使用されています。これは周縁を低く、花文を高く盛り上げてあり、鉅歯文(きょしもん)を巡らせてあります。蓮子(れんし)は中央の一個を中心に8個、16個と二重にめぐらせています。この鐙瓦と対になるのが、均正(きんせい)忍冬唐草文(にんどうからくさもん)の宇瓦(のきがわら)です。法起寺や法隆寺の瓦によく似たものがあります。

※なお、当寺と法起寺との中間の丘陵地に、三井瓦窯(みいがよう)として名高い窯跡があります。この窯跡から多量の丸瓦・平瓦に混じって一点だけ法輪寺出土の白鳳期鐙瓦と酷似したものが出土しています。

特別公開で見られる
寺宝

かつて伝わっていた多数の寺宝も、歴史の変転のうちに、その多くは散逸し失われてしまったようです。
以下の宝物は一般公開していませんが、秋季特別展などでご覧いただく機会があります。

龍鬢褥

  • 重要文化財

  • 藺・絹製

  • 縦72.0㎝・横77.0㎝

現存している花筵(はなむしろ)としては最古のものであるといわれています。龍鬢褥(りゅうびんじょく)とは藺、すなわちいぐさを五色に染めて織った花筵をさしますが、これは赤・紫・緑・縹に染めたいぐさと黄色の麦藁を用いています。もとは一畳の花筵であったものを半切し、四周に錦の縁をつけたもののようです。文様は表面のみで、繧繝風に色を変えた枠をめぐらして、その内外に流麗な植物文と、長方形に内接する楕円の団花文とも見える文様を織り出しています。原料のいぐさを中央で連結しており、後世の中継ぎ技法のルーツとしても貴重な史料であるとのことです。当寺では推古天皇御褥と伝えていますが、法隆寺献納宝物にも類品があり、奈良朝以前の制作ではないかとされています。

塔心礎納置銅壺

  • 重要文化財

  • 銅製

  • 総高8.5㎝・口径7.1㎝・胴径11.3㎝・底径7.3㎝

江戸正保2年(1645)、法輪寺は台風の大変な害に遭い、建物はことごとく倒れ、ただ三層目を吹き飛ばされた三重塔のみが残っていたそうです。この銅壺(どうこ)は、江戸時代の元文4年(1739)の三重塔の修理に際し、塔心礎の舎利孔から発見された舎利容器です。現存する心礎の舎利孔はこの銅壺がちょうど納まる大きさであること、銅壺の胴廻りの舎利孔周壁と接していた部分に帯状の錆が浮き出していることなどは、この銅壺が創建以来心礎の中に納置されていたことを物語っています。材質もよく入念に仕上げられており、白鳳時代すなわち当寺三重塔創建時のものとみて間違いないと思われます。

宝塔文磬

  • 重要文化財

  • 銅製・鍍金・絃(裾張り)

  • 24.0㎝

磬(けい)とは中国古代の楽器のひとつで、玉や石を「へ」の字形に工作し、木の枠にかけて打ち鳴らしたものです。その後仏教に取り入れられて銅製のものが多くつくられ、導師の右脇にある磬架(けいか)にかけて用いられます。釣鐘とは違い、たたいたときの音が余韻のないことをよしとしています。制作年代は平安後期といわれており、多宝塔文様のものは類例がないようです。

※なお、当寺と法起寺との中間の丘陵地に、三井瓦窯(みいがよう)として名高い窯跡があります。この窯跡から多量の丸瓦・平瓦に混じって一点だけ法輪寺出土の白鳳期鐙瓦と酷似したものが出土しています。